創立50周年記念講演 

 

国際社会を生きる

〜後輩へのメッセージ〜

                                    講師:郷農彬子 氏   


 皆様、本日は創立50周年おめでとうございます。39年も前にこの愛すべき附属中学を卒業しました、郷農彬子と申します。立派な記念行事の席で、僭越ながらお話をさせていただくことになり、大変光栄に存じます。本日は、社会人の方々と中学生の皆様の両方におもしろいと感じていただけるようなお話ができるかどうか心配ですが、これまで携わってきた国連ユネスコや国際会議の仕事およぴ7年間の外国暮らしの経験などを中心にお話をさせていただくつもりですので、どうぞ宜しくお顧い いたします。


 私は長崎の生まれ育ちだということをとても誇りに思います。誰にとっても、故郷は懐かしく、かけがえのない素晴らしいところでしょう。でも、長崎は特別な町です。長崎に生れ育ったことは、一つの特権ではないでしょうか。私は、向島の三菱造船所の社宅で育ちましたので、家の窓からは港と対岸の山々が見渡せ、素晴らしい景色でした。夕日が傾くころは、南山手一帯がオレンジ色になり、窓ガラスは炎のようにゆらゆらと赤く輝いて、私は飽きずに眺めていたものです。

 さて私は小島小学絞に入学し、飽の浦小学枚を卒業して、附属中学校に入りました。入学式験のことをいまだに覚えておりまして、国語の文章の中に、「フランスささげのはち」というのがあって、何の事だか分からず、困りました。はちを漢字で書きなさいという問題に、beeの蜂と書いてしまったのですが、後日正解を見ると、potの鉢でした。その時、フランスささげというのが植物であることに気が付いた次第です。附属の先生は、難しい問題を出されるものだと感心し、降参しました。

 当時の附属中学絞は、ボロ校舎という表現がぴったりの2階建て老朽牧舎でした。台風が来るとなると、先生方が風速を気にされ、 30m以上の予報だと即、下校です。校舎が倒れる恐れがあるからです。屋根の尾根は少しばかり波打っており、台風に備えて立派なつっかい棒も規則的につけられていました。台風の酷い時は、校舎がなくなってるんじゃないかと心配しましたが、とうとう一度も倒れませんでした。造作も雑だったとみえまして、お掃除の時など、2階でバケツの水をこぼすと、瞬間的に 1階にジャーッと流れ落ちて、「コラーッ」と怒鳴り込まれたものです。

 しかし、そのような建物とは反対に、中身は非常に充実していました。先生方は指導への情熱あふれる方ばかり、生徒たちも皆レベルが高く、共に学び、遊び、幸せな学生生活と思春期をエンジョイする ことができました。私の学生生活で、一番楽しかったのは、附属中学時代でした。良い友人もたくさんできました。

 しかしその一方、私は、心身ともに未熟でした。1年生の時はクラスで一番チビの学級委員で、おかげで男子に「天然チビ」というあだ名をつけられました。人間的にも発展途上で、友 たちの噂話などで迷惑をかけたことが2、3度あります。今思うと申し訳ない気持ちでいっぱいです。自分でも深く傷付き、反省し、高校に入ってからは、絶対にそんなことをしないように心に誓いました。中学時代というのは、小学生のように無邪気でいられなくなり、悪いと 分かりながら悪いことを言ったりしたりするものではないでしょうか。ですから自分のしたことを忘れることができません。

 ところで私は、中学時代のことで内心自慢していることかひとつあります。それは、2年生の後半以降卒業まで、毎日1番バスで登校したことです。私は遅刻するのが嫌でしたし、混んだバスに乗るのも嫌いでした。飽の浦から始発に乗ると、乗客は決まって5〜6人の日雇い労務者の男女と私だけでした。6時 23分発だったと思います。稲佐橋を渡ったところでバスを乗り換えると、その後で、3〜4人の附中生が乗ってきました。ちょうど校門に着くころに、用務員さんによって校門や牧舎の鍵が開けられます。清々しい気持ちで、校内に一番乗りするのが常でした。それから一時間以上、みっちり予習をしました。しかし、今考えてみると、女子は私一人だったし、バス停までも、静まりかえっているところを毎朝自分の 靴音だけを聞きながら歩いていたのですから、危険だったかもしれません。真似をしないでください。早起きの私に付き合って、お弁当をせっせと作ってくれた母、毎朝お味噌汁をちゃんと用意してくれた母に、頭が下がる思いです。その母は、今も82才とは思えない元気さで、車を運転し、私の家事を助けてくれています。


 附属のあとは東高に進学しました。東高に3年間通っていれば、その生活もさぞかしエキサイティングだったろうと思いますが、残念ながら1年弱で、東京に引っ越さなくては なりませんでした。私は長崎びいきなので申しますが、東京はなかなか好きになれませんでした。平たい土地に家ばっかり、お魚は新しくない、海も山も見えない、つまり海にも山にも簡単には遊びにいけないのです。標準語にもついていけません。しかし、附属中学や東高で培った学力で、都立高絞の生徒とも互角に渡り合うことができたのは幸いでした。

 また、東高のクラス全員から新しいクラスの皆さんへ、という手紙が届き、転校して寂しいと思うので宜しく頼みます、というメッセージが読み上げられ、熱い涙がこみあげました。この手紙は、私だけでなく、都立高校の生徒たちの心も動かしたことと信じています。


 中学、高枚、大学を通して、私が一貫して力をいれたことがあります。それは、英語の勉強でした。英語の勉強にもいろいろあります。読むこと、書くこと、聴くこと、単語。私は、「Speaking」に特にカをいれました。3年間の英語の教科書は空で覚えました。それから3年生の時の中里先生に課された、1日10題の例文を暗記するという宿題も、1年間欠かさずしっかり覚えました。先生が必要と思われる文章をガリ版刷りで用意してこられるのです。合計千数百題もあったでしょう。すると我ながら驚いたことに、外国人に会うと、スラスラと英語を話すことができたのです。もっと驚いたことに、まだ小学生の妹が、中学生の英語を聴き覚えでベラベラと話し出しました。語学の習得の基本ともいうべきパターンがそこにあったと思います。よく、英語を話せるようになりたいんですがどうすればよいですか、と人に聞かれます。私はいつも中学校の教科書を全部覚えてごらんなさい、あとは語彙の問題だけですよ、と申し上げるんです。

 高校1年生の時には、私は活水のアメリカ人の先生やロータリークラブで来日したオーストラリア人の通訳をすることができました。どうしてそんなに英語のスピーキングに夢中になったかと言いますと、中学1年の2学期に、英語の大崎先生から、発音を褒めていただいたことが発端でした。高絞でも、大学でも、最初の投業で先生が発音の理由を尋ねられました。大学の英会話の授業は当時超有名人のNHK英語講座・松本亨先生でしたが、教壇を降りて私の横に来られ、「あなたはアメリカ育ちですか」ときかれました。一歩も日本を出たことはなかったのですが、努力を認めて貰えたようで嬉しくなりました。

 実は私の英語は、やはり英語の虫だった父の影響によるものです。中学1年から2年にかけて、父は毎日のように私の勉強部屋にやってきて、しつこく発音を仕込みました。本当にしつこいので「ああ、またレッスンだ!」と心の中で嫌っていたほどです。しかしそのおかげで、私の一生の生活の糧が備わりました。親の恩とは本当にありがたいものです。

 ひとつのことを、何年も何年も飽きず、懲りず、ひたすら続けますと、それがいつのまにか、チリも積もると大きな 貯蓄となって、利子までもらえるようになるのです。それに、先生に褒められるということが、大きな喜びと励ましとなり、一生をも決めてしまうことの例が私です。また、先生が生徒のために一所懸命に用意してくださった宿題を真面目にやると、ちゃんとごほうびがいただけるということなのです。


 人生の大半を、私は外国語とともに過ごしてきました。そして多くの外国人と触れ合って来ました。初めて外国に行ったのは、25才の時で、文化使節団通訳としてでした。海外暮らしはアメリカとドイツの合計7年間ですが、仕事で訪ねた国は、16 か国、旅行を含めますと25か国を実際に見聞することができました。その間に経験したことや学んだこと、感じたことをこれからお話してみたいと思います。

 学校を終えて私が就職した先は、東大の原子核研究所でした.大学4年生の時から、原子核構造国際会議の組織委員会にアルバイトに行っており、卒業するなり裏方をまかされてしまったのです。 30年前には、国際会議を準備・運営するためのノウハウやソフトウェアは、どこにも蓄積されていませんでした。大学の先生方や交通公社の人たちと一緒に、暗中模索状態で準備に耽り組んだのです。おかげで 700人程の国際会議(ノーベル賞の受賞者も10人位出席)が盛大に行われ、成功裏に終わりました。しかし私の中には反省点や改善点が滞積し、胸の中で熱を持ち始めていました。もっと国際会議をやりたい。今度はもっとうまくできるのではないか、という思いにかられながら事後処理に当たっていたところ、国連のユネスコで募集があっていることを知り、応募しました。幸いにも採用していただき、画家公務員となって文部省に配属され、国連ユネスコを担当することになりました。そこでまた、いくつものユネスコの国際会議を準備し、運営する立場になったのです。どうやら私は、国際会議の仕事をする運命にあったようですね。


 皆様、ユネスコとはなにをする機関かご存じでしょうか?国連は、国連システムと呼ばれる大家族を形成しており、いろいろな専門機関が附属しています。ユネスコもその一員で、正式な名称は、 ”UNITED NATIONS EDUCATIONAL, SCIENTIFIC AND CULTURAL ORGANIZATION”といいます。その頭文字をとってユネスコです。日本名は、国連教育科学文化機関です。国連の様々な活動や事業の中で、特に教育・科学・文化に関する分野を扱っているところです。ユネスコのほかにはどんなものがあるでしょうか?

 よく似た響きのもので、ユニセフというのがありますね。国際連合児童基金です。ユニセフでは、世界中の子供 たちの健康と幸福を願い、アフリカの子供たちを疫病から救うためにワクチンを行きわたらせる活動や、途上国のストリートチルドレンを保護する活動などをしています。

 ILOも聞いたことがおありだと思います。匡際労働機関です。労働環境を改善したり、労働者の権利を守ったりしています。私 たちが同時通訳をした会議で、「芸能人の労働条件に関するセミナー」というものがありまして、有名な俳優さんたちも参加していましたが、この時パリのILO本部から専門家が来て講演をされました。

 WHOも有名ですね。世界保健機関といって、例えば天然痘の撲滅などの偉大な業績を立てています。その他,FAO:世界食料農業機関、IMF:国際通貨基金など、また割に新しいWTO:世界貿易機関など、国連システムには主なものだけでも 20近い専門機関があります。その本部も世界各地に分散しています。

 語学力に自信のある若い人たちは、よく国連で働きたい、と言います。どうすれば国連の職員こなることができますか、と聞かれることもあります。ごく簡単にご説明しますと、そのルートは大きく分けて3つあります。一つは私のように国家公務員として採用された者が、その属する省庁から、国連機関こ出向するルート。たとえば文部省からであれば、教育・科学・文化機関:ユネスコへ派遣される。労働省からならば、国際労働機関:ILO本部へ出向させられる、厚生省ならばWHOという具合です。しかし、大抵数年で帰国となります。

 もう一つは国連が専門家などの上級職を募集したときに応募すること。世界の粉争解決に弄走しておられる明石康さんなどはこのケースです。40年前に明石さんが26才で国連 に入った時、何と給料が日本の総理大臣より多かったそうです。しかし、今は日本の給与水準がうんと上がり、円高その他のファクターもあって、国連職員だからといって特に驚くような待遇とはなっていません。世界銀行のように待遇が物凄く良い機関もありますが例外です。若い人でも、国連の研修職員のようなポストに応募することができます。

 第3番目は現地採用職員になる道です。しかし、秘書や運転手などのジェネラル・サービス、つまり一般職にとどまります。日本はアメリカ(25%)に次ぐ国連分担金拠出国(15.65%)でありながら、職員は国連システム全職員53,000人のうちの1%くらいしか入っていません。大変残念なことです。皆さんも国連で働いてみてはいかがでしようか。国連でなくても、将来社会で働く人 たちは、国際化を意識し、是非語学の勉強をしっかりなさることをお勧めいたします。


 さて、国連のお齢は何才でしょうか。実は、この附属中学投とはぼ同じお年なのです。国勝連合は、1945年の第二次世界大戦の終結直後の10月に発足しました。ですから、附属中学より2才年上で,私より2才年下です。国連の加盟国数をご存じの方、いらっしゃいますか?現在世界のほぼ全ての国、185 か国が加盟しています。何と、スイスは加盟していません。永世中立国だから国際政治には巻き込まれません、というスタンスです。発足当時の加盟国は51か国でしたから、国連は大発展したことになります。ユネスコも、国連に続いて翌年に設立されました。

 ではユネスコは、具体的にはどんなことをしているのでしょうか?思い付く人は手を挙げてみてください。最近は、ユネスコの世界逮産というプロジェクトが大変重要なものとして注目を浴びています。日本で、この世界遺産に指定されているものは、法隆寺、屋久島、姫路の白鷺城、白神山地、京都の文化財、合掌造りの白川郷(岐阜県)+五箇山(富山県)。そして広島の原爆ドームと厳島神社です。こうして世界中の重要な人類の遺産(Human Heritage)を、共適の持ち物として、修復したり保護していこうとしています。皆さんご存じの万里の長城カンボジアのアンコールワット、インドネシアのポロブドゥールなど、現在 506件の貴重な遺跡が対象になっています。

 アスワン・ハイダム建設のために水没するナイル川流域の(アブシンベル神殿やヌビア遺跡など)を大々的に引っ越しさせたり、各国の代表的な文学作品を翻訳する事業も続けています。先月は、横浜で世界遺産国際会議が開かれ、私 たちが同時通訳を担当しました。

 ユネスコの事業のなかには、識字教育も含まれます。字を識ると書きます。昔は文盲という言葉がありましたが、それは差別用浩として排除され、現在は非識字者という言葉が使われます。世界中に、字の読めない人々がどのくらいいるのか、皆様心の中で当ててみてください。何人に一人だと思われますか?・・・・・答えは、5人に1人です。女性だけとりますと、何と3人に1人なんですよ!日本では信じられない数字ですね。ユネスコでは、その割合を滅らす努力を世界中で展開しています。日本では、世界寺子屋運動というものを提唱して、NGOの人 たちが、途上国の奥地までそれを広めようとしています。ちなみに、NGOは、NON-GOVERNMENTAL ORGANIZATIONの略で、非政府機関のことです。NGOとはよく聞く言葉ですが、本来、国連の目的に協力して活動している民間団体を指します。

 私がユネスコで働いていた頃、いろいろな国際会議を開きましたが、その例を挙げますと、日本文学国際会議というのがありました。日本の文学について世界の著名な文学者や研究者が集まり、研究討議しました。ユネスコが企画し、資金を出して、有意義な会議を開くわけです。わが国を代表する作家の方々が参加されましたが、中でも一番若い三島由紀夫氏は、廊下でお会いすると、「オウ」と片手を 挙げて声を掛けてくださいました。会議で三島氏が述べられたことは非常に印象的でした。彼は「日本で私小説というスタイルが人々になじむのはなぜでしょうか」という外国人の質問に答えて、日本人が普段から自分の心をありのままに明かさないからだ、と述べました。人に向かって建て前で話します。そこで、三人称で書かれていることは、心底信用ができない。だから、「私」を主人公とした記述スタイルだと、信用できると無意識的に思うのだ、とのことでした。もちろん、私は、大作家がおっしゃったことを間違えてとらえたかもしれませんが、もう三島氏はこの世におられないので、お確かめする方法もありません。地盤沈下国際会議というのもありました。イタリアの水の都ヴェニスが、年々ほんの少しずつ沈んで行くので、どうすればよいかを中心に専門家が話し合うものでした。英語教育国際会議では、アジア各国から英語の先生たちが集まりました。

 ユネスコは、このように重要なことを沢山しています。そして、ユネスコの精神、理念というのがまたとぴきり素晴らしいのです。ユネスコ憲章の前文に、有名なジュリアン・ハックスレー博士の言葉がのっています。「戦争は、人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に、平和の砦を築かなくてはならない」というものです。英語では、SINCE THE WARS BEGIN IN THE MINDS OF MEN ,IT IS IN THE MINDS OF MEN THAT

THE DEFENSES OF PEACE MUST BE CONSTRUCTED.といいます。歴史では、XX戦争の発端となったのは○○事件である、などといいますが、実は戦争に突入することを決めるのは人間の心だという当たり前の指摘です。しかし、このフレーズを聞いた人は誰しも感動を受け、本当にそうだ、と思うに違いありません。このような高慢な思想を広めてゆけば、世界中の人を洗脳できそうじゃありませんか?私もユネスコに就職して、初めてこの序文に触れた 時、雷に打たれたように感動したものです。

 だからユネスコでの毎日は、人類のためになる良い仕事をしているという充実感がありました。しかし、そのうちに内部事情も分かってきます。ユネスコといえども、政治的な争いの影響を受けない訳にはいかず、例えば、ジャーナリズムの中立性について激論が戦わされ、ユネスコのまとめた宣言文にアメリカが怒り、ユネスコの内部は紛糾し、ついにはアメリカの脱退という結果を招いてしまいました。するとイギリスも追随して脱退してしまい、現在は日本が最大の分担金拠出国です。私がここで申し上げたいことは、あのように輝くような基本理念をもちながらも、ユネスコは内部紛争で泥まみれになってしまった、という事実です。また国連本部しかりです。平和を希求する気持ちは、万人共通のものだと思いますが、あらゆる所で大小の争いが絶えません。いったいどうすれば、人間は争いをやめることができるのでしょうか。これは人類最大の課題のひとつです。


 争いごとが起こったとき、もし相手の言い分がひどいものだと思うのだったら、自分の方が冷静に、理性的になれるはずです。つまり泥まみれの中にあっても、自分は石であり続けなければならないのです。そこで理性的になれなければ、自分もドロドロの泥になってしまい、相手との泥試合にズルズルと入っていってしまいます。身近なケンカから戦争に至るまで、私たちは泥にならず、石でありつづけようと自分の心に語りかけるようにしたいものです。もちろん小さな1個の石にすぎませんが。


 どこの国の人たちとも、みんなみんな仲良く暮らせれば、そんなに良いことはありません。私はアメリカ3年、ドイツ4年の海外生活のなかで、いろんなハプニングに出会い、いろんな人 たちに会いました。これまで、国際会議も600件以上に関わってきております。その経験を少しお話してみたいと思います。外国人と仲良くもしましたし、戦いもしました。

 私たちが1才の子を連れてアメリカに引っ越したのは25年も前のことでしたが、当時の日本は自覚ましい経済発展を果たす前でしたし、住んだところがディープ・サウス(南部中の南部)と呼ばれるテキサスだったので人種偏見も強く、日本人は弱者の立場に置かれていました。テキサスは、その州だけで面積が日本の3倍もあります。ジェット機でダラスに着くと、それから先はトンボのようなプロペラ機に乗り換えて約1時間で、小さなな田舎の大学町、カレッジステーションに着きました。その間驚いたことに、地上にはまるで手付かずの荒野が広がり、どこにも家など見当たりませんでした.テキサス南部はメキシコ湾に面し、NASAで有名なヒューストンがあります。西隣はメキシコです。その昔、テキサスの誇り高い男 たちはアメリカ政府に反旗をひるがえし、独立戦争を起こしました。アラモの砦はそれで有名です。ちょうど日本の薩摩藩に似ていますね。テキサスは亜熱帯で、冬の間もクーラーをつけることがあるほどでした。茫漠とした砂漠地帯があり、サボテンや潅木がところどころにはえていますが、砂丘ほどはひどくありません.

 車でハイウェーを走っていると、看板が出ており、ここから100マイル先までガソリンスタンドがないので、ここで給油しなさい、などと書かれています。湿地帯のようなミシシッピ川の橋を渡る 時もそうでした。100マイルは160キロですから、長崎からだと福岡よりずっと先までということになりますね。日本とは大変なスケールの違いです。テキサスの広々したハイウェーでは、いろんな動物が交通事故にあっていましたが、私の見た一番大きな物はウマでした。最もはねられやすいのは、スカンクとアルマジロです。なぜなら、スカンクは何かが近寄って来ても、ブーツとやれば大丈夫と自信を持っているので、やられてしまいます。また、アルマジロは、マツカサを引きのばしたような形の動物ですが、くるっと丸くなって、日分のウロコの殻に閉じ籠ると安全と思っているので、これまた逃げません。護身に自信があると、かえって危ないという教訓みたいですね。

 さすが亜熱帯だけあって、黒くて大きな毒ぐもタランチェラはいるわ、サソリは出るわ、毒ヘビはいるわと、たいへん物騒でした。子供がアリ塚の上に立ってしまったために、全身大アリにたかられたこともあります。草むらには、しばしばミニ恐竜のような形のカエルがいました。

 人間もけっこう物騒で、私たちは、許しなくして決して他人のロット(敷地)に入ってはいけない、と教えられていました。珍しいきれいな花が咲いていても、可愛い子犬がいても、よその庭に一歩入ってしまえば、撃たれてもしょうがないというのです。車にライフルが積んであるのは、当たり前の光景でした。

 アメリカは自由・平等の国だというイメージは、確かに正しいのです。私たちがアメリカに到著したその日から、同じ市民として迎えてくれるのですから。しかしその反面、激しい差別も存在するという矛盾した国です。もし白人(白人にも純正白人と亜流白人がいるらしい)と日本人が交通事故を起こせば、どんなにこちらが正しくても、ポリスも目撃者も賛成してくれない可能性が強い、と日本人の間では言われていました。私の主人が、研究所の駐車場に入ろうとして、入りロを塞いでいるトラックが動き出すのを待っていたところ、トラックはいきなりバックしてきてぶつかり、ウチの車は前部を大破しました。その 時はお茶を濁していた運転手。ポリスの前に出ると、こいつが追突してきた、とのたまったそうです。目筆者はおらず、形勢はにわかに不利になりました。ポリスは東洋人の下手な英語を相手にせず、たちまち犯人にされてしまったのです。私たちは困り果てて、知り合いのアメリカ人、アン・コーペット夫人に相談しました。コーペットさん一家は東京に何年も住んでいたことがあります。話を聞いて激怒したアンは、トラックの会社に怒鳴り込んでくれました。そして机をたたいて言ったそうです。「私たちが日本に住んでいた間、どれほどたくさんの日本人に親切にしてもらったかわからない。日本人ほど善良で正直な国民はいません。アメリカ人がウソを言って日本人を困らせたなら、私はお世話になった日本人たちに顔向けできないんです!」こうして急転直下、事件は解決しました。差別する人もいれば、それに我慢出来ない人もいるのです。私たちは、 身も知らない日本人の同胞たちがほどこした親切のおかげで、見知らぬ土地で助けてもらえたのでした。

 コーペットさんで思い出したことがあります。日本食パーティーをするから来てね、とアンに招かれて、私はタッパーウェアに巻寿司をぎっしり詰めて出掛けました。パーティーはだいたい深夜に及びます。うちの1才の子がぐっすり眠ってしまったので、抱っこして帰ったところ、ズックを忘れて置いてきてしまったのです。そうしたところ次の日の午後、アンがうちへやってきて、「ハイ、忘れ物」と渡してくれました。何と、ちっちゃなズックを、お寿司のタッバーウェアに入れて持ってきたのです。私はあわてて、そ、それは食べ物をいれるもので・・・と言いましたところ、アンはやさしく微笑んで、「おクツはちゃんと洗って干しました。」彼女にとっては疑問の余地のない行動だったらしいのです。大学院も出た教養人です。日本人とは衛生観念がまったく違うことが明らかでした。


 さて私たちはアメリカで2回引っ越ししました。4月1日に引っ越すことにしていた私たちのところに、3月 28日に白人のアパート管理人がやってきました。「この部屋に次に入る人たちがホテルで待機してるんですよ。明日出ていってくれませんか」「でも、前々から4月1日と伝えてあるはずです」「じゃ、30日でいいから出てってください」「困りますよ、だって新しいアパ−トはまだ仕上げ作業中で4月1日オープンなんです。」すると管理人は急に態度を変えて、「だいたい月の31日日はおまけなんですからね。1 か月の家賃は30日を基準にしてるんですよ」なんて言い出だしました。きっとホテルにいる人からせっつかれたんでしょうね。私は咄嗟に、「あら、それは知らなかったわ。じゃ、先月は28日だから、2日分安くなるってことですか?」と言い返しました。するとさすがにしまったと思ったらしく、管理人は引き上げて行きました。私たちが白人だったら、こんな無茶な話は持って来なかったと思います。

 テキサスでアパートを探していると、「空室あり」と書いてあっても、私たちが見に行くと、「あら、さっき有力な希望者が現れたのよ」と言われることが何度もありました。もちろん何日たってもやっぱり空室ありでした。また、アパートのプレイグラウンドやプールに子供を連れて遊びに行くと、白人の親子がサッと引き上げてゆくことがありました。初めのうちは気に留めなかったのですが、ある 時、部屋の窓から母親が首を出し、「テレサ、直ぐにお家にお帰り!」と大きな声でヒステリックに子供を呼んだ時、ハッとあることに気付いたのです。私の子供と遊ばせたくないんだな、と。まるで汚いもののように思われているのだと。アパートの子供のお誕生会にも、日本人やメキシコ人の子洪は呼ばれませんでした。話しかけてくれる人もほとんどありませんでしたが、ある時スーパーのレジの黒人の女憧が、「あなた日本人?仕事しないの?」と言うので、「何かありそうですか?」ときいたところ「あそこのフライドチキンやさんで売り子を募集してる」とのこと。「私、日本では国連の仕事してました:I used to work for the UN.」というと、のけぞって驚いていました。私の外見からは、そのような仕事はとても連想できないのです。

 私たちの住んでいたカレッジ・ステーションは大学町です。主人はアメリカでも有数の研究施設のあるその大学で実験をしていました。夏休みになると、学生たちが借りている部屋が空になり、そこへ夏の特別講習を受けにくる大人たちが遠くの町からドッとやってきて、2 か月ほど過ごします。彼等は職場を休んで、新しい知識や技術を仕入れるために、夏期講習を受けに来るのです。夏だから、家族も皆一緒にやってきます。ちょっとしたキャンプ気分のようです。夏期講習というと、日本では受験勉強しか思い浮かばないと思いますが、アメリカではこのような継続的なlearningが少しも珍しいことではないのです。まさに生涯学習の実例です。アメリカのダイナミズムを見る思いでした。よその町からやってきた人々は、白人でもお高くとまらず、私たちと仲良くしてくれました。一緒にプール際でパ一ティーしたり、バーベキューを楽しんだりしました。そこには垣根や差別は感じられませんでした。もしかすると、亜流白人の人 たちだったのでしょうか?

 バーベキューを企画した時、ナンシーという女性が仔牛を半頭買おう、と言い出しました。まとめ買いのはうが安上がりだというのです。私は牛の三枚おろしを想像してゾッとしました。よはど変な顔をしたらしく、ナンシーは察して「大丈夫よアキコ、お肉屋さんで全部切り分けてくれるから」と私の首をたたきました。おかげで私は卒倒しなくて済んだわけです。バーベキューは、テキサスの郷土料理みたいなものでした。夕方外を歩くと、あちこちの家の庭やアパートの中庭から、バーベキューの煙とおいしい匂いがたちのぽり、タンクンとしちゃいます。日本のように、クシ刺しにした かっこいいバーベキューではなく、だいたいはお肉も玉葱もピーマンもとうもろこしも、ゴロゴロと焼く素朴なものでした。通りがかりの人も、「ワーいい匂い」なんて声をかけたりします。ちなみにアメリカで皆が使っているバーベキューセットのうち、鉄でできた小さめの四角いものは、「ヒバチ」という名称で親しまれていました。


 アメリカに3年住んでドイツに引っ越した時、真っ先にショックを受けたのは、このバーベキューの煙のことでした.「さあ、今日はバーベキューしようね」と子供 たちに声をかけ、テラスで焼き始めると、だれかがドアをノックしにきました。上の階の住人が、「煙が窓から入りますからお止めください」と難しい顔をして苦情を言うのです。アメリカとのあまりの違いに、私たちはぴっくりするやらがっかりするやら。どうすればいいのか聞いたところ、公園の所定の場所でやってください、とのこと。しかしこれは序の口でした。ドイツに4年間住んでみて、つくづく規則だらけ、社会規範ずくめだということがわかりました。しかもどこにも書いてない規則がいっぱいです。外国からいきなりやってきた私たちやアメリカ人の家族は、まるで掟破りの野蛮人みたいでした。

 ドイツに引っ越してしばらくは、2人の子供たちは日本語、英語、ドイツ語が同じくらいできました。私はある 時、日本語の単語を覚えさせる方法として、シリトリを教えようと思い付きました。よーくやりかたを説明してから、じゃあ始めようネ、といってリスといいました。スイカ、なんていってくれるのかな−と期待していると、何とウサギというではありませんか。私はがっかりして、なんて頑が悪いんだろう、よくよく説明したのに、と思いながら、もう一回はじめからやりなおしました。ではハイ、アシ、というと、返事はイヌでした。もうお分かりになったでしょう?そうです。ドイツの小学1年生の彼は、リスをRISUと考えるので、最後はスでなくUだったのです。頭の中で翻訳しながら、ウサギといったのでした。アシもシで終わるのではなく、Tで終わるので、次はイヌというわけでした。初めはおこっていた私も、訳がわかって、それ以上シリトリを教えませんでした。

 さてドイツのお話に戻りましょう。今度は主人が、当時の西ドイツの国立原子力研究所に勤めることになりました。アメリカと違って、私たちはお客様のように迎えられ、皆さんに親切にしていただきました。しかしドイツは、美的環境と静かな環境のふたつに大変うるさい国でした。

 よくドイツやスイスに旅行した人たちから、町がとっても美しくて清潔、という感想をききます。それは本当にそうなのです。オーストリアもそうですが、特にヨーロッパの北半分では、町でも家でも家具でも車でもピカピカにするのが好きです。綺麗にすることは良い ことですが、私には少々行き過ぎではないかと思われました。美観を優先するあまり、沈潜物を外に干しません。地下室に干さなくてはならないのです。ベランダに布団を干すなどもってのほかです。そこはプランターにお花を植える指定席なのです。レースのカーテンは、薄汚れていてはいけません。窓ガラスは、一点の曇りもないように努力します。

 しかし奇妙なことに、汚れがとれれば、残留洗剤はどうでもよいらしいのです。窓や石段ならともかく、お皿やスプーン、フォークに至るまで、ゆすぎを省略します。お皿は、泡のういたスポンジで汚れを落としたら、そのまま布巾で拭って、食器棚にしまいます。私はその ことで、お隣りの親友ユリーゼと喧嘩をしてしまいました。私は水でゆすぐと言い、彼女はもう汚れは落ちていると言い張ります。エリーゼはなんとお医者さんなんです。また彼等は、台所の流しで雑巾を洗っても平気です。使った後で、綺麗にこすれば大丈夫だという観念です。アメリカでタッバーにクツを入れたのと、まったく同じ考えがドイツでも通用しているようでした。

 日本の家や町並みや室内をドイツと比べると、その美観のレベルには雲泥の差があるのを認めざるを得ませんが、実態を見ると考え込んでしまいます。私は、洗濯物をお日様に干したくて、ウズウズしました。ある日、とうとうアパートの庭に洗濯物を干しました。すると、すぐに作業をやめるようにと言いにきた人がいます。今日は土曜日です、 土曜日は休息をとる日なのです、公共の場所で働いてはいけません、とのこと。なるほど、主人も、土曜日に路上で車を洗って、すぐやめるよう文句をいわれました。どうやら休日ムードを壊すらしいんですよ。なんて自由の無い国だろう、というのが正直な感想でした。

 ドイツでは、日本と比べて日照時間が年間約500時間も少ないそうです。私も約3か月間、はとんどお日様を見なかったことがありました。だから窓辺に太陽が射せば、大急ぎで子供 たちを呼び寄せますし、夏は白夜はどではないけれどもいっまでも明るいので、夜の8時でも子供たちを外で遊ばせてしまいます。アメリカ人の子供たちも一緒でした。そこで、ドイツ人のお母さんたちからおキュウをすえられる羽目になりました。外で遊んでいる子供 たちがいると、私たちドイツ人の子供たちに示しがつきません、というわけです。なぜならドイツでは、全国津々浦々、子供は7時半に寝かされることになっているからです。ある 時私たちは今日からクリスマスホリデーだというので、家族4人でトランプ遊びをしていました。するとドアをノックする音がして、管理人がやってきまして、時計を指差しながら、もう8時15分なのに、お宅の子供たちが騒いでいるといって回りの人 たちからクレームがきている、とのこと。ちょっとうんざりしましたね。アメリカでは皆で許しあってバランスを保っている、ドイツでは規制しあって平安を保とうとしているというわけでしょう。

 また音にもやたらうるさくて、夜や早朝はもちろんのこと、午後の1時から3時までの間は「ルーヘツァイト(静かにする時間)」を厳守しなくてはなりません。その間、洗濯機や掃除機を使ったり、子供が泣き叫んだりしますと、周りからクレームが来ます。ドアの開け閉めを注意され、はては夜中にトイレにあんまり行かないように、などまで文句をいわれる窮屈さでした。

 そういうお国柄ですから、ドイツ人の友人リーダーさんが東京の我が家に泊まった時に、夜10時過ぎにマイクを使って「石焼 ーきいもー」がやってきた時には、目を白黒させて驚いていました。私が、あれは何だと思いますかと聞くと、暫く考えてから「今日は何か宗教的な記念日ですか。あれはお妨さんの念仏でしょうか」とのこと。焼きいもです、との答えにますます驚き、首をひねっていました。ドイツなら通報され、50mほど行ったところでポリツアイにつかまるだろう、と私は思います。

 この様にお話しして参りますと、ずいぶんドイツ人ってひどいんじゃないか、と思われるかも知れませんが、アメリカ人に比べれば素朴で親切で、笑顔の明るい人々でした。私の子供 たちは、ダルムシュタットにいた時、それぞれ小学枚、幼稚園で唯一の日本人(東洋人)でしたが、とても可愛がっていただきました。小学枚では、校長先生が全校生徒を前に、もし君 たちが日本に住んで、日本人の学枚でただ1人ドイツ人だったらどうしますか?だからこの子に親切にしてあげるんですよ、と指導してくださいました。おかげでとても暖かい雰囲気に包まれて過ごしました。先生の一言は、大変効果のあるものです。その一言がなかったら、いじめられたかもしれません。


 日本に帰ってきてしばらくして、長男はナチスのことを聞いてきて、真剣なまなざしで私に真偽を質しました。私が残念ながらそれは本当よ、と教えると、彼は突然涙を溢れさせ、ウソだ、ウソだ、あんなに親切な人 たちがそんなひどいことをするはずは絶対無い、と私にくってかかりました。思えば私たちがドイツから帰国する日、近所の人たちが車の回りに集まってくれ、子供の友 たちは泣きながら、走れる限り走って車の後を追い、見送ってくれたのでした。

 同じ民族が、ある時は親切で、ある時は残酷になりうるというのは、人間がいかに環境に影響される動物であるかを証明しています。やはり私たちは、泥にまみれても、それに気付き、あくまでも石であり続けるように頑張りたいものです。しかし、純粋すぎるのも時として考えものです。私は純粋もケースパイケースであると子供 たちに教えていました。命にかかわるときは、嘘をついてもいいのよ、と私は子供たちにいつも言っていました。もし踏み絵を出されたら、踏んででも生き延びてほしい、というのが、私の真摯な親心だったのです。特に、外国人の間に住んでいると、アンネのようにどんな差別を受け、いつなんどき命の危険にさらされるとも限らない、という恐れが、いつも心の底にあったからです。


 さて、外国のことばかりで、国際会議のお話が少しもできませんでした。お話は変わりますが、私は国際会議の準備・運営と、通訳、翻訳の会社を約15年間営んでいます。 500人以上の規模の国際会議が、世界中で一年に8,000件程開かれています。日本は欧米からは地の利が悪いので、そのうちのわずか3%くらい、250件前後が開かれます。しかし、小規模なものも合わせると、日本だけで年間約 1,000件位に上ります。私たちはその準備や運営を担当し、当日の受付けや同時通訳など、裏方を引き受けます。この仕事をしていると、時には国際会義の全責任が私たちの肩にずっしりとかかってきて、その重荷につぶれてしまいそうになることがあります。開幕が近付くにつれ、スタッフは悪夢にうなされるようになるのです。開会式の日に、全員の名札が間にあわなかった、とか、看板を作るのを忘れた、などの夢をみて飛び起きるんです。

 とても苦しい仕事ですが、その反面、世界中から来られるお客様たちと会え、華やかな舞台を共有することもできます。これまで、サッチャーさんとランチをご一緒したり、女様ご一行の通訳をしたり、マドンナやスポーツのスーパースターに付き添ったり、重要な政治折衝に立ちあったり、ノーベル賞受賞者のお宅に遊びにいったりと、おもしろいこともたくさんありました。アメリカ通商代表部のカーラ・ヒルズさんと冗談を言ったり、総理大臣のお誕生祝いに、私たちの翻訳した本をお渡ししたこともあります。翻訳といえば、マイケル・ジャクソンの日本公演の契約書など、秘密書類も訳すことがあります。だれも知らないことをたくさんお腹の中に溜めこんでいるので、切腹したら秘密がドッと溢れ出てきそうな気がします。


 そろそろお時間が切れそうですね。最後に、いろいろな国際経験や人種差別を受けるなどの人生経験を通じて、私が強く感じるようになったことをひとつお話しさせていただいて、結びとしたいと思います。また国連のお話にもどりますが、皆様、世界人権宣言というのがあるのをご存じですね。 1948年12月に国連で採択されたものです。その第1条には、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である。」と書かれています。また、第2粂には、

すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位またはこれに類するいかなる理由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを亨有することができる。」と謳っています。

 なかなか守られないとはいいましても、世界人権宣言は、本当に心強い人類の味方です。人はもともと、一人一人が差別を受けることなく、幸せになる権利を持っているのです。ただし、誰にも与えられていないものが一つだけある、と私は考えています。それは、人間には、人を不幸にする権利はどこにもない、ということです。恋におちた人は、相手のことをきっと一生幸せにしてあげる、と心に誓うかもしれません。うるわしい誓いですが、他人を本当に幸せにすることはなかなかむずかしいことなのです。せっかくいいつもりでしたことが、ちっとも相手を喜ばせないことがよくあります。しかし、人を不幸な気持ちにさせないように努力することは、成功率がより高いはずです。だから私は、世界人権宣言の一番最後に、「しかし人間は、人を不幸にする権利を有しない」という一文を加えるといいな、と思っているのです。裏側からの努力ではありますが、人を不幸な気持ちにしないようにすることで、きっと自分自身も楽しい気持ちで生きて行けるのだと思っています。皆様の、これからの実り多い人生をお祈りしております。

GOOD  LUCK  TO  YOU  ALL!

 これで私のお話を終わらせていただきます。長い間のご静聴まことにありがとうございました。

平成9年11月 2日(日)

 

お礼の言葉

 郷農彬子さん、本日は本校の創立50周年にあたり記念の御講演をいただき、ありがとうございました。 

 私たちは、この御講演で、お若い頃から、海外で、数多くの外国の人々とともに、生活し、たくさんの大きな仕事を成し遂げてこられた郷農さんの、国際的な見地に立ったお話を、聞かせていただけることを楽しみにしていました。

 今日のお話では、学生時代の長崎での思い出、海外での生活の様子が、たくさんのエピソードとともに語られ、興味深く聞かせていただきました。文化や生活習慣の違い、そして、その時々に驚いたり、戸惑ったりした郷農さんの思いが、私たちの心に浸み込むように伝わってきました。

 特に、世界を所狭しと御活躍される一方で、文化や習慣の違う外国で生活する二人のお子さんの姿を、愛情深く見守り続けてこられた姿に、同じ女性である私にとって、これから一人前の社会人として成長していかなければならない私たちにとって、学ぶところが多くあったように思います。

 現代は、国際化社会と言われます。中学生の私たちにとっては、まだ実感の湧きにくい言葉ですが、今日のお話を聞かせていただいいて、世界を見つめる目が、少しずつ広くなっていくように感じます。

 一方で、これまでに数々の御功績をあげられた郷農さんを支えてきたものが、この長崎の地に生まれ育ったことであり、この附属中学校での生活や学習であったことには、たいへん驚かされました。毎日をあわただしく過ごしている私たちに、改めて現在の生活の大切さを教えてくださいました。

 このような機会に恵まれたことを、そして、郷農さんのような立派な国際人を大先輩にもてたことをうれしく思うとともに、附属中学校への感謝の思いを新たにしています。

 どんなに社会が国際化し、多様化していく中にあっても、人々の人権と世界の平和を守り育てていくものは、豊かな郷土の中で、人と人とのふれあいを通じて培われる「人間の心」にほかならないことを感じました。

 郷農さんからいただきました私たち後輩へのメッセージをしっかりと受けとめ、これからの成長の糧としていきたいと思います。

 本日、記念講演をいただきましたことに心から、感謝いたします。ありがとうございました。

長崎大学教育学部附属中学校 生徒代表

             

 


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