4月政変と和平の行方
谷川昌幸
ネパールの政治体制が,4月の「人民運動2063」により,国王親政から議会政治へと大きく変化した。この変化が「革命」となるか,「改革」にとどまるか,それとも「叛乱」とされることになるかはまだ分からないので,ここでは「政変」と呼ぶことにする。
4月政変の最大の原因は,1990年憲法体制がマオイスト問題に対応できなかったことにある。1996年の人民戦争勃発以降,コングレス党(NC),統一共産党(UML)など議会諸政党が紛争解決に取り組んだものの,ことごとく失敗,その結果,議会は2002年5月22日解散され,国王が直接政党代表を首相に任命し政治を行わせる無議会政党内閣政治になった。ところが,この政党内閣政治も人民戦争を解決できず,とうとう2005年2月1日,国王が内閣を解散し,自らが直接政治を行う国王親政を始めた。
しかし,この国王親政は強硬策で人民戦争をかえって激化させる一方,国民に対してはますます抑圧的となり,諸政党からもその非民主性を激しく攻撃されるようになった。こうして,国王が専制化すればするほど,諸政党とマオイストが接近し,ついに2005年11月22日両勢力間で「12項目合意」がなり,連携して国王専制を打倒し,制憲会議による新憲法制定を目指すことになった。
2006年4月6日のゼネストをもって開始された「人民運動2063」は,この「12項目合意」の具体化であり,外出禁止令の発令,大量逮捕・拘束にもかかわらず全国に拡大,デモ参加者は20,21日のカトマンズで10万人,全国では数十万人の規模に達した。
これに対し,国王は21日,行政権の「人民」への移譲を表明し,7政党に首相候補の推薦を提案したが,政党側はこれを不十分として拒否,25日に50万人の大デモを構え,権力の完全移譲を要求した。この頃になると,治安部隊によるデモ隊の制圧は困難になっており,結局,国王は24日夜,テレビを通して声明を発表し,7政党の要求通り議会を復活させ,28日に招集すると宣言した。7政党側は25日,この提案を受け入れ,ここに19日間に及ぶ「人民運動2063」は7政党側の圧勝をもって終結した。
この結果を受け,4月28日,4年ぶりに議会が再開され,30日にはコイララNC党首を首班とする政党内閣が発足した。そして,5月4日には,停戦,マオイストのテロリスト指定解除,和平交渉の開始が発表された。
この「人民運動2063」の一連の成果を文書で確認したのが5月18日の「代議院宣言2063」であり,ここでは次のような憲法体制の変更が宣言されている。
(1)人民主権(前文)=人民は国家の諸権力と主権の唯一の源泉。(2) 制憲会議による新憲法制定(前文)=現行憲法の改正ではなく,「12項目合意」の新憲法制定の方針を再確認。(3)成熟民主主義(前文)=1990年人民運動の成果を継承しつつ,2006年人民運動の成果を制度化し,成熟(full-fledged)民主主義を実現する。(4)議会主権(前文)=新憲法制定までは,議会が主権を行使する。(5)行政権(§2)=行政権は内閣にあり,内閣は議会に対し責任を持つ。(6)軍隊(§3)=軍の名称は「ネパール軍」とし,首相を議長とする「国家安全保障会議」が統制する。(7)王室会議(§4)=廃止。(8)国王(§5)=王位継承法は議会が制定。王室費は議会が決定し,国王の私有財産にも課税。国王の行為は代議院または法廷で審査できる。(9)国家(§8)=世俗国家(secular state)とし,国歌(国王讃歌)も変更する。(10)1990年憲法(§9)=この「宣言」と抵触する規定は無効。
以上のような変更は,憲法の根幹に関わる大幅なものであり「革命」といってよいが,今のところこれは新憲法制定までの暫定措置である。7政党とマオイストは5月26日,「25項目行動綱領」に調印し,制憲会議選挙,新憲法制定を目指すことになったが,「綱領」そのものにも強制寄付禁止,没収財産返却など実行困難なものが少なくない。また,新憲法についても,NCは議会主権と儀式的君主制,マオイストは人民民主主義に近い共和制,UMLは両者の中間の立場を取っており,さらに国家世俗化など別の複雑な問題も加わり,調整は容易ではない。
幸い,7政党もマオイストも国連を中心とする国際社会の積極的関与に同意している。国際社会がこの要望に応え,停戦監視,選挙支援,財政援助など平和構築のための協力を惜しまないなら,10年に及ぶ人民戦争で疲弊し平和を切実に願うネパール国民が,どのような国家形態になるにせよ,和平を実現し,安定した社会生活を取り戻すことは,決して不可能ではないであろう。
「ネパールの視覚障害者を支える会会報」第15号,2006年6月,p.6