死と音楽―現象学的記述のための覚書

 

高橋 眞司(哲学)

 

 

まず、聴くという素朴な行為に徹すること。
やがて、音自身がのぞむところを理解することができるだろう。

(武満徹,1967,1992,1996

 

はじめに

 

 哲学者の谷川徹三が書いた「芸術論集」(谷川,1943)なるものが私の手元にある(1)
私も同じようなものを書いてみたいという希望を長いこと持ち続けてきた。文学、絵画、彫刻、映画、音楽、写真、美学、そして創造について、私自身の経験を現象学的記述の方法によって克明に書き綴ってみたい、という希望を持ち続けてきたのである。
そのうちいくつかのジャンルについては学会報告や公開講演の経験はあるが、「芸術論集」という形を取るにはほど遠い(2)

 ところで、「現象学的記述」とは何か。ここで、現象学的記述とは「事物そのものへ!」
(Zu den Sachen selbst ! Heidegger, 1976:27,34)という現象学の格率をたえず想起しつつ、
事物の本質を明らかにするために事物についての直接的経験を記述することを意味する(Cf. Warburton,1998:194-5)
この点に関して、私は現象学的考察を自ら実践する中で、現象学的記述についての認識を深めてゆきたいと思う。だが、さまざまな芸術分野のいわく言い難い内的経験を克明に記述するためには、時間的余裕が必要だ。
ここには、いま私に許された時間内で、将来の「芸術論集」のために、歴史における死と音楽、とりわけ、現代における死と音楽について、二三の心覚えを書き記すにとどめたい。
その際、「死と音楽」のごく表層を擦過したにすぎぬとしても、読者はそれを諒とされんことを願う。やがて音を聴くように直接的に「事物の本質を直観すること」
(das WesenSehding)
そしてこの直観において「本質判断」(Wesensurteil)を下すことに習熟したいと熱望しているからである
(Husserl,1965:42-43;J:67-68)

 

 


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