む す び

 

永井隆から秋月辰一郎へ

 

 長崎原爆をめぐるこうした状況のなかで、永井隆とその浦上燔祭説とを批判したのは秋月辰一郎であった。

 秋月辰一郎(1916―)は、戦後20年におよぶながい沈黙を破って上梓した『長崎原爆記』(弘文堂、1966年)のなかで、「師弟」の間柄としてはギリギリのことばで永井隆を批判した。「永井先生の外交的なカトリック的人類愛と、私の内向的な仏教的人生観は、あまり合わなかったのである。私は、ただ結核医として、放射線医学を勉学した。むしろ、永井先生の詩情と人類愛、隣人愛を白眼視する傾向さえあった」(12)

 秋月辰一郎は自分の「原爆白書」とよぶ本書の末尾に浦上燔祭説の批判をつぎのように書きつけた。

 

 幾千と集まった浦上の信者の、死者追悼のミサに出なかったのを私は残念だとは思わない。幾千人の前で、読みあげる慰霊祭文を聞きたいとも思わなかった。私は、永井先生の「神は、天主は浦上の人を愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されているから、何度でも苦しまねばならぬ」といった考え方にはついていけないものを持っている(13)

 

 「ついていけない」! まことに含蓄のふかい言葉である。それは18世紀イギリス道徳哲学のsympathyの理論を想起させる。たとえば私は、故太田可夫がスミスのsympathyについて「同感は、同様な地位に置かれたるときに我々が感ずるであろうところのものである。勿論所謂同情ではない。fellow feelingである。to go along withである。“ついていける”ことである」(14)と述べた一節を思い出す。秋月辰一郎は、永井隆の浦上燔祭説にはまさに「ついていけない」と言い、「天主の試練もひどすぎる」!(15)と叫ぶ。

 永井隆と秋月辰一郎の関係をここで詳述することはできないけれども、原爆によって破壊された浦上の原子野で目と鼻の先で互を意識しながら生活していた両者のあいだには、求道者として宗教者として、また医学者として医療従事者として、師弟なるがゆえにいっそう熾烈の度合をまし加えたたたかいがあったと想定すべきである。そうした人間としての全面的な対決を総括することばとして、秋月辰一郎は「ついていけない」という意味深長な一語をえらんだと理解すべきである。そして、この『長崎原爆記』が出版された1966年を境に、永井隆と浦上燔祭説を批判した秋月辰一郎の思想的営為が、被爆地ナガサキにおける新しい思想形成をうながしてきたと総括することができるであろう。これがわたくしの結論である。やがて発足する「長崎の証言」運動は、数次の変革を経て今日に持続するが、われわれは秋月辰一郎をつねにその先頭に認めることができる。

 1981年2月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、広島において「平和アピール」を発し、翌26日長崎を訪問、雪空のもと巨大な野外ミサを執り行った。

 「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。・・・・・・過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです」。ローマ教皇の「平和アピール」は、被爆地長崎にあっては、もはや永井隆の浦上燔祭説の文脈においてでなく、それを批判した秋月辰一郎の反被爆の思想においてうけとめられたことは明らかであった。

 大要は以上であるが、さいごにひとこと付言したい。家永三郎氏は今夏『戦争責任』(岩波書店、1985年)という非常にすぐれた、倫理的資質のたかい著述を刊行した。このなかで、家永氏「将来への危険を阻止し、世界の平和と人類の安全とを確保するためにも」戦争責任の追及は「回避できない責務」だという。わたくしもまた、ただ単に過去を総括する意味においてだけでなく、責任としての未来にただしく向き合うためにも、とりわけ<長崎にあって哲学する>者として、永井隆とかれの浦上燔祭説とをシッカリ批判しておかなければならないと考えるのである。

 

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