第3節 浦上燔祭説の背景と意義
社会的背景
では、なぜ浦上燔祭説のような思想が出てきたのか。その背景はなにか。ここに〈長崎の二重構造〉がふかくかかわっているのである。
港長崎とキリシタン長崎の歴史的地域的対立の根底には人間的・宗教的対立があった。“お諏訪さん”(諏訪神社)とその祭礼“くんち”を盛り立ててきた旧市街の人々は、浦上の「切支丹」を「クロシュウ」あるいはたんに「クロ」と呼んだ。浦上のカトリック信者は、逆に旧市街の異教徒を「ゼンチョ」と呼んだ。いずれも侮蔑のひびきがある。前掲の地図によって確認してほしいが、長崎駅より南東にひろがる長崎の旧市街に「ゼンチョ」の末裔が居住する。そして長崎駅より北へ約3キロ、浦上天主堂を中心に「切支丹」が住む。原爆はどこへ投下されたか。原爆は浦上のキリシタンの上で炸裂した。すると、浦上のキリシタンの上に原爆が炸裂したのは、諏訪神社にお詣りにこないからだ、天罰だ、というような考え方が旧市街の人々の意識の底に形成される。
永井隆が『長崎の鐘』のなかで、隣人の山田市太郎さん(存命)に語らせているのはそのような見解である。「誰に会うてもこう言うですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残ったものは神様から特別の御恵みを頂いたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」
それに対して、永井隆は「私はまるで反対の思想をもっています」と切り返す。「原子爆弾が浦上におちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と。浦上のやつは諏訪神社にも全くお詣りにこない。だから原子爆弾は天罰なのだ、といった俗信・俗説にたいする切り返しの論理として定式化されたのが「浦上燔祭説」だったのである。そうして、永井隆による「弔辞」や「弔詞」の朗読をきいて、浦上の信徒らは胸のつかえがおりるように感激したのであった。
歴史的意義
浦上燔祭説の歴史的意義として、何よりもまず、二重の免責ということがあげられる。長崎への原爆投下がもし神の摂理によるのであれば、無謀な十五年戦争を開始遂行し、戦争の終結を遅延させた、天皇を頂点とする日本国家の最高責任者たちの責任は免除されることになる。同様に、原子爆弾を使用したアメリカ合衆国の最高責任者たちの責任もまた免除されることになる。永井隆は『ロザリオの鎖』や『長崎の鐘』(日比谷出版社、
1949年1月)が刊行されたとき、そこに盛られた浦上燔祭説がこうした責任の追及を封ずることになるのを自覚していた、と私は思う。「何が私たちをこんな涙と灰の谷に突き落したか」 を問うて、かれはこう答える。浦上燔祭説の歴史的意義は、戦争責任と原爆投下責任の二重の免責につきるものではない。永井隆は、「浦上ガ犠牲ニナッタカラコソ終戦トナッタノデアル、コノ犠牲ニヨッテ十数億ノ人類ガ戦乱ノ惨禍カラ救ハレタノデアルト思フモノデアリマス」と述べていた(「弔辞」原文)。それは原爆投下の是認と、ひいては原子爆弾そのものの肯定に道をひらくものといわねばならない。
浦上燔祭説の呈示による日米の支配者層にたいする二重の免責、反ソ・反共主義の鼓吹等によって永井隆に与えられた報奨は、天皇の慰問(1949年5月。永井隆は「これは余りにも、もったいない次第でありました」と答礼した)、「長崎市名誉市民」なる称号の授与(1949年12月)、内閣総理大臣表彰・銀杯下賜(1950年6月)とつづく。
内閣総理大臣吉田茂の表彰状には、「たまたま原子爆弾に負傷し、病床につく身となつた後は著述に力を尽し『長崎の鐘』、『この子を残して』等幾多の著書を出して社会教育上寄与するところ少くなく、その功績顕著である。よつてここにこれを表彰する」とある(11)。いうところの「功績顕著」とは、十五年戦争下の、天皇を頂点とする日本の支配階級の政治的および道義的責任の免責、ならびにアメリカ合衆国の原爆投下責任の免責、さらには、朝鮮戦争勃発の前夜における反ソ。反共主義の鼓吹といった「社会教育上」の寄与・功績の顕著と読むことができるであろう。
「まさに聖者の面影がある」とジャーナリズムにもてはやされ、一連の政治的セレモニーによって永井隆が政治的引き立てを蒙ったとき、その華やかな脚光のかげで、長崎の被爆者たちは沈黙を余儀なくされ口をつぐまざるをえなかった。永井隆とかれの被爆観(浦上燔祭説)をあれこれ取沙汰することは、いわばタブーとされた。長崎の被爆者が原爆にたいする怒りと恨みをたたきつけ、その責任を追及し、補償をもとめる道はこの側面においてもかたくとざされざるをえなかったのである。