第2節 浦上燔祭説
浦上燔祭説の呈示
浦上燔祭説は永井隆が「天主公教浦上信徒代表」として読み上げた「原子爆弾死者合同葬弔辞」(1945年)、および「浦上合同慰霊祭弔詞(第1周年)」(1946年8月9日)のうちに表明されている。前者は『長崎の鐘』(172−178ページ)に、後者は『ロザリオの鎖』(67−74ページ)に収録されている。今回わたくしは永井隆直筆のエンピツ書きの「弔辞」と、謄写版刷りの「弔詞」を確認することができた。原本と単行本所収との間には相当の異同があるが、ここでは論じる余裕がない。
さて、私たちは長崎原爆について、1)そもそも長崎原爆をどう見るか。2)原爆の死者をどう見るか。そして、3)生きのびた被爆者は何をすべきか、といったもろもろの問いを立てることができる。永井隆がこれらの問いに1)摂理、2)燔祭、3)試練、とこたえたとき、そこに〈浦上燔祭説〉が成立する。
第一に、長崎原爆の性格にかんして、永井隆は浦上に原爆が投下されたのは偶然や偶発事でなくして、神の摂理によると考える。8月9日の真夜中、浦上天主堂が炎上したことと天皇が「終戦の聖断」を下したこと、聖母の被昇天の大祝日に「終戦の大詔」が発せられたこと、これらの「奇しき一致」は決して「単なる偶然」でなく「天王の妙なる摂理」による、と「解釈」するのである。
第二に、原爆死没者にかんして、永井隆は神の祭壇に供えられた犠牲すなはち「燔祭」(holocaust)とみる。原爆死没者とは「むごい死を政治によって強制されたひとびと」(高橋眞司「原爆死について」(9))ではなく、「まことの死処」を得て「美しい最後」をとげた「汚れなき小羊」である。「戦乱の闇まさに終り平和の光さし出ずる8月9日、此の天主堂の大前に焔をあげたる嗚呼大いなる燔祭よ! 悲しみの極みのうちにも私らはそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。」
永井隆は「昭和20年8月9日の純心学園をおもひて」、
燔祭のほのほの中にうたひつつしらゆりをとめ燃えにけるかも
と歌った。この「燔祭」のうたは、こんにち長崎純心学園の校墓(旧奉安殿)にレリーフとして嵌めこまれている。
第三に、原爆にかろうじて生き残った者にとって原爆とはいったい何を意味するのか。永井隆はこう記す。「数々の殉教、不断の迫害、原子爆弾。これらは皆やがて教を異にする者にさえ、天主の栄光を世に示すための であつたことを悟らしむるもの」である。「浦上を愛し給うが故に浦上に苦しみを与え給い、永遠の生命に入らしめんが為に此世に於て短きを与え給い、しかも絶えず御恵みの雨をこの教会の上にそそぎ給う天主に心からの感謝を献ぐるものでごさいます」。原子爆弾は神によって与えられた「試練」である。「浦上を愛し給うが故に浦上に苦しみを与え給」う神に「心からの感謝を献ぐ」べきだというのである。
永井テーゼ―――浦上燔祭説その他
浦上燔祭説は、しかしながら、永井隆のなかで単独に存在したのでなく、さまざまな観念や偏見とも結び合わされて、“永井テーゼ”とも呼ぶべき総体を形成している。
主著『長崎の鐘』の出版がGHQの検閲のためにおくれている間に公刊された『ロザリオ