結 び
さて、死と音楽に関するこの大股の「踏査」(perambulation)(15)の結論として、この半世紀間、長崎について世界的水準の音楽作品は未だ出来していない、そして、これは平和文化の創造における重大な欠落である、と言わなければならない。音楽の世界においても、広島に比して長崎の劣位(16)は明らかである。ペンデレッキからカーニスまで、アウシュヴィッツについての音楽はあるが、南京大屠殺についての音楽はなく、コヴェントリで奉献されたレクイエムはあるが、ドレスデンに捧げられたレクイエムをいまだわれわれは知らない(17)。
新しい第三 に生きるを許されたものとして、われわれの同時代に、強制収容所の中でその目的のために囚人のように繋がれた音楽(18)があったことを思うとき、音楽という技芸を、戦争目的のためにでなく平和の創造のために、人権と自由の圧殺のためにでなく平和文化の創造のために、用いるべきであることを心から希求せずにはいられない。そのような関心をもって新世紀における現代音楽を能動的に聴き、その新しい展開を注視しつづけたいと思う。