第1節 永井隆と長崎
永井隆
永井隆(
1908−51年)の生涯には二つの画期的出来事がある。1934年、天主公教浦上教会で洗礼をうけてカトリックに改宗したこと、および、1945年原爆に遭遇したこと、の二つである。この二つの出来事によって、永井隆の生涯は三つの時期にわかれる。永井隆はもともと長崎の ではなく、「出雲の山奥の、 の川沿いの村で育った」。改宗以前のことでこれまで論じられたことがないのは、永井隆の父永井寛は、大国主命を祀る出雲大社教の信者であったことである。これは墓碑(3)によってもたしかめることができる。
1973年、出雲大社大宮司 が出雲大社敬神講を結成した。これが出雲大社教の起源である。出雲大社の教養は、千家 によれば、「経国治幽」と「和譲の精神」を説いたということができる。(4)前者は「皇基を万世に奉譲し国体を無窮に保持するは、臣民の義務」という国体論であり、後者は「ダイコクさまの譲りにより日本は国家として誕生したのです。労資和合することにより産業は興り工場の機械は運転するのです」(5)という労資協調の立場にもなる。千家家に特別の家訓はないが、「皇室の と国家、民族の繁栄とを祈」るのが出雲の国造千家家の使命ときけば、神社神道出雲大社教のおおよその見当をつけることができる。永井隆はこうした教えのもとに生長してきたと考えられる。
永井隆は高等学校の時代に「唯物論のとりこ」になっていた、と述べる。しかし、その唯物論はマルクス=レーニン主義というより、人間に尊厳性はない、だから「飲め! 歌え! 踊れ! 遊べ!」を合言葉とする享楽的な快楽主義であったにすぎない。
永井隆は「満州事変」と「日華事変」に二度、つごう合わせて約四年間出征。中国大陸に軍医として従軍し、「七十二回の合戦」に参加した。「満州事変」から帰還して、1934年6月受洗、つづいて森山緑と結婚した。受洗の動機について、W・ジョンストンはパスカルの「パンセ」、浦上天主堂の鐘の音、そして森山緑の三つを指摘している。
それに対してわたくしは、母の死(1930年)、パスカルの「パンセ」、そして森山緑の三つを指摘したい。母の死によって永井隆は霊魂の存在を「直感」し、「パスカルによつてすつかり私の思想を破壊しつくされ」、浦上の隠れキリシタンの潜伏組織の頂点に立つ「帳方」森山家の血すじをひく森山緑によってカトリックにみちびかれたのであった。
長崎医科大学卒業直前に、かれは中耳炎をわずらい、そのために聴診器を用いる内科を断念して物理的療法科、すなはち放射線科に転じたのである。研究テーマは「レントゲン間接撮影法の研究」および「身体組織の微細構造の研究」であった。かれは尿石の研究について「いささか新しい知見」を得て、1944年学位を取得した。
1945年6月、透視台の上に立って「慢性骨髄性白血病」と自己診断、「余命あと満三年」の予後判断を下した。8月9日、永井隆は大学病院本館にあった「ラヂウム室ノ自分ノ机デ、古イレントゲン写真ヲ整理シテ、教材ト破棄トニ分ケテヰタ」(6)とき原爆が炸裂、「こめかみの動脈を切られ」る負傷を負った。重傷を負いつつも、長崎医大第十一医療隊を指揮。8月11日自宅跡に緑夫人の遺骨をひろい、翌12日、義母森山モツと 、 の二児を疎開させていた西浦上 藤の尾に退避した。この疎開先をねじろに三山救護所を開設。10月8日まで58日間、原爆被災者の救護活動に従事。その折の活動報告が被爆後25年目にして発見され、話題をよんだ。『長崎医大原子爆弾救護報告』(朝日新聞社、1970年)がそれである。
長崎の二重構造
長崎の旧市街の人々と浦上のキリシタンとのあいだには、キリスト教伝来以来の弾圧、迫害、差別のながい歴史がある。斎藤茂吉は長崎医学専門学校教授として長崎に滞在中、つぎのような歌をのこしている。
西坂を不浄の地といひてぎにけり悲しくもあるか
長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき
牛の背に畠つものを負はしめぬは世の唄うたはず
(斎藤茂吉歌集『つゆじも』岩波書店、1946年)
浦上山里村が長崎市に編入されたのは斎藤茂吉が長崎に滞在していたころ、正確には1920年(大正9年)10月1日のことであった。
永井隆は、浦上と旧長崎市街のこの区別を、「キリシタン長崎の名で示される霊魂の町」と「港長崎の名で知られる肉体の町」の対比によって示し、端的に「マリアのまち」と「エロスのまち」ともよんだ。
原爆炸裂後、長崎県知事永野若松は防空総本部長官、西部軍管区参謀長ほかにあてて被害状況を報告している(7)。長崎県庁や市役所は長崎駅よりさらに南東に、爆心地から約3キロ前後のところに位置していた(図4−1参照)。上に述べた区別でいえば「港長崎」でなく「キリシタン長崎」が爆撃されたのである。県知事の発した「防空情報第一報」の末尾に「追而 県庁員幹部ニ死傷ナシ」と追記してあるのは、何よりも雄弁にそのことを物語っている。県知事が「浦上一帯ノ概ネ二粁平方ノ地域ハ家屋殆ンド全壊」したのを把握したのは、当日15時から20時までの間に発せられた「防空情報第四報」においてであった。
また、長崎市長岡田壽吉は、9月4日および5日被災地の視察に来崎した久松侍従に、「浦上地区ハ元浦上山里村ト称スル部落デアリマシタガ大正九年長崎市ニ編入サレタノデアリマス」云々という「言上書(8)」を提出している。
浦上をキリシタン部落として差別する長崎の二重構造のなかで、永井隆の浦上燔祭説が形成されたのである。