3 現代音楽の諸潮流
現代音楽については、折にふれてアンソロジー(秀作選)が編まれている。私の手元には、新ウィーン楽派のベルク「ルル組曲」ほか、シェーンベルク、ウェーベルンの秀作を集めたもの(CBS,1967,1983)に並んで、「今世紀の音楽―ヴェルゴ・コレクション」(Wergo,1988)や「アルゴー・コンテンポラリー・サウンド・サンプラー」(Short Cuts: Breaking the Sound Barrier. Argo,1992)といった、最新の問題作品ばかりを集めたものもある。また、クラウディオ・アバドの発案で始まった「ウィーン・モデルン」(Abbado,1994)のライヴ、あるいは現代日本を代表する作曲家(広瀬量平、一柳慧、石井真木)の秀作を集めた「現代日本音楽の夕べ」(CBS/Sony,1985)、岩城宏之プロデュース、武田明倫企画監修による「21世紀へのメッセージ」第1−4集 (岩城,1994-1999)などがある。また、ピアノ音楽についていえば、シュトックハウゼン、ジョン・ケージ、クセナキスらのピアノ曲を集めたクララ・ケルメンディ「現代ピアノ音楽」(Kormendi,1984)、矢代秋雄、三善晃らのピアノソナタを弾いた田原富子「現代日本ピアノ名曲選」(田原、1989)、さらには、ポリーニの弾く重厚な「20世紀のピアノ音楽」(Polini,1993)がある。これはほぼ20世紀の全体をおおう1909年から1977年までに作曲された、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、ノーノ、マンゾーニらのピアノ音楽を集成したものである。選定と収集の基準は多種多様であるが、これらはいずれも、現代音楽が人間的に、また技術的に追い込まれていった苦境とそれに対する人間的な共感、そして創造的突破(breakthrough)をよく示したものになっている。したがって、こうしたアンソロジー(秀作選)は現代音楽へのよき導入、信頼するに足る道案内と言ってよい。
しかしながら、最近2,30年の音楽を「今日の音楽」(la musique d’aujourd’hui)とよぶとすれば、「今日の音楽」についてはいまだ評価の定まらぬものが多い。それだけに、評価の確定したとはいえぬ同時代の音楽家の未知の作品を聞くのはある種の冒険にも似たスリルがある。
たとえば、クロノス・クワルテット「アフリカ作品集」(Kronos Quartet,,1992)に出合ったときのうれしさは格別のものであった。私とほぼ同世代のドウミサーニ・マライレの、母の死を歌った、回想の喜びと離別の悲しみ、そして再会の希望の入り混じった「母ノジポ」(Dumisani Maraire: Mai Nozipo,1990)や、アフリカの大地とそこに住まう人々の連帯の広がりの感じられる「クタンバラーラ」(Kutambarara,1990)など、何度聞いてもアフリカの大地と生命の鼓動が新鮮に響く作品であった。
ここまで私は現代音楽という言葉をとくに定義もせずに使ってきた。ここで現代音楽を定義すれば、現代音楽は、第一に、同時代の音楽を意味する。この場合、同時代とは音楽史に照らして、およそ20世紀の初頭以降と設定してよいであろう。現代音楽は、第二に、同時代の烙印を担うものでなければならない。ただ単に制作年代が現代であるというだけでなく、それは現代の人間と社会の意図と希望と挫折とを見つめ、それらを典型的に表象・造形するのでなければならない。それは20世紀初頭以降における人類の苦しみと無関係でなく、同時代の苦境と苦悩、そしてそれらからの解放のための闘争、自由への高い志を濃密に湛えた音楽を意味する。現代音楽は、第三に、前衛音楽を意味する。それは伝統的な音楽との切断、断絶、反逆、乗り越え、革新、革命、等々によって特徴づけられる。20世紀の初頭、シェーンベルク、ウェーベルン、アルバン・ベルクら「新ウィーン楽派」によって、十二音という新しい音楽原理の上に立脚して無調性、無主題の音楽が創造的に詩作されたとき、ここに現代音楽が成立したと言ってよい。したがって、同時代の音楽としての現代音楽と前衛音楽としての現代音楽は、20世紀の初頭以降、互いに重なり合う。
今日、現代音楽は、作曲家、演奏家、聴衆のいずれにとっても、固有の困難につきまとわれている。現代音楽は前衛的であればあるほど、演奏家や聴衆を見出すことが困難になる。他方、伝統と妥協して演奏会で聴衆を多く獲得しようとすれば、確かに制作年代は現代に属するが、前衛音楽としての本質を見失うことになる。しかしながら、現代音楽の高い稜線を形作っているのは、痩せた前衛音楽でなく、豊かな創造性を維持しつつ前衛的たらんとする、また前衛的たりえた音楽である。そして、これら現代音楽の一番高い稜線を保ってきた現代作曲家たちの名前を手近なところからあげるだけでも、この小さな文章のよくなし得るところではない。そしてまた、これらの実験的前衛音楽が現代音楽の「伝統」となってゆくとき、前衛的であることを定義によって運命づけられた現代音楽は、「前衛の前衛」というきびしい状況の中に自らを追い込まねばならなくなる。
おもうに、何人にとっても、現代音楽とのつきあいは、情婦との関係に似て、いつも日は浅いが、関係は濃密である。私の聞くところ、現代音楽には三つの大きな潮流がある。音楽理論および技法の歴史において革新的、革命的なものが第一の潮流を成す。理論的には無調性や十二音技法による音楽作品、そして新しい音響技術によって導入された新しいタイプの音楽がこの第一の潮流に属する。家人はいやがるけれども、私は「従来の美学のあらゆる制約を断ち切ったことを自覚していた」シェーンベルクの不協和音の多い作品を好んで聴く(Schonberg,1906,1947,1975 etc.)。アルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェック」(Berg,1925)は、救いようのない暗い物語に革新的音楽を付して、最後はイノセントな子どもに希望を託して終わっている。だが、20世紀は希望を託すべき子どもたちを世界歴史上未曾有の規模で殺戮したのであった(6)。とすれば、21世紀には、技術的にも思想的にも「ヴォツェック」を越える前衛的なオペラが書かれねばならない。
第二の潮流をなすのは、現代社会の状況、とくに戦争とホロコースト、およびその中に生きる人間の状況を音楽的に表現したものである。この第二の潮流の代表作として、さきに触れたメシアン「時の終わりのための四重奏曲」(Messian,1941)、ペンデレッキ「広島の犠牲者のための哀歌」(Penderecki,1960)のほかに、シェーンベルク「ワルソーの生き残り」(Schonberg,1947)、等を挙げることができる。シェーンベルクは、1933年ヒトラーの政権掌握ののち、自らのアイデンティティをかえって強めてユダヤ教に改宗、アメリカに亡命した。戦後の作品「ワルソーの生き残り」は、シェーンベルクが、同時代におけるユダヤ人同胞の受難をホロコーストの生存者から聞き知って、作詩作曲したものである。これを聴けば、十二音技法の発明者シェーンベルク(Rosen,1975)が、音楽史上、最高度の表現力を持っていたことがわかる。
現代音楽において、子どもたちが登場し、あるいは子どもたちが歌われ子どもたちのイノセントな声が聞かれるとき(7)、それは「子どもの世紀」、否!「子どもの虐殺の世紀」としての20世紀にとって、そして人類が劇的に事態を転換し得えぬならば21世紀にとっても、象徴的意味を有するのである。
第三の潮流は、現代社会の分裂と危機のなかで漂流し呻吟する人間の病的状況を癒し、人々の人間的再生に仕えようとする音楽である。この領域に属するものを挙げるとすれば、私はエルガーの交響曲第1番(Elgar,1908)(8)、メシアン「幼子イエスにそそぐ24のまなざし」(Messian,1944)、武満徹「水の風景」(武満、1982)、それにヘンリク・グレツキー「悲しみの交響曲」(Gorecki,1988)などをつけ加えてみたい。それらは「人の子」という復活の象徴や、水、雨、樹木、そして幼児といった生命力に満ちた存在、あるいは生命の源泉を凝視したものだからである。
とくに、初期の代表作「弦楽のためのレクイエム」から出発した武満徹(1930-1996)が、その最晩年に詩人の谷川俊太郎とともに「系図―若い人たちのための音楽詩」(武満,1996)を制作し、「フルートのためのエア」(武満,1996)を遺作としたことを考え合わせると、深い感慨におそわれる。それは今世紀におけるもっとも豊かな音楽的思索、あるいは同じ事であるが、音楽的詩作が、死の予感、死の恐れから出発しながら、大きく東西に旋回して、十分に重い生の現実を肯定し、自然と人間の生命の息吹を大切に育んでいた、ということである。武満は自作“November Steps”[11月の階梯]について、「尺八の名人が、その演奏のうえで望む至上の音は、風が古びた竹藪を吹きぬけていくときに鳴らす音であるということを、あなたは知っていますか?」(武満、1967,1992,1996)と言っている。さりげない自然の生命的、象徴的事物に、たとえば一本の古木に、耳を澄ます武満の集中力は、古今の音楽史を見渡してみても類例を見出すことがむつかしいほどである。この死の予感、死の予兆から、限りなく重い人生の肯定と生命の象徴の創造に向かう武満の音楽的道程は、すでにドビュッシー(Debussy,1892-1913)やメシアン(Messian,1939-1983)の影響を脱していて、核兵器による自滅と地球環境のカタストロフィー(破局)に直面している人類にとってきわめて示唆的である(9)。
21世紀に、これら三つの現代音楽の潮流はますます流れを早め、怒濤のごとく高まって行くであろう。他の領域におけると同様、音楽の実験、その理論的突破と技術革新とは、何人たりともこれを押しとどめることはできない。この第一の潮流の高まるにつれて、第二の潮流、社会と人間の状況を反映した音楽作品はますます重苦しく息苦しく、苦悩と苦渋にみちたものとなろう。そして、確実に奇怪醜悪の相をさらすものとなろう。そうなれば、第三の潮流、人間の癒しと再生をめざす音楽は、いよいよつよく人々の希求するところとなるであろう。
この文脈で、私はミサ曲(Missa, Mass)、レクイエム(Requiem)の重要性を認識する。ミサ曲は、本来、カトリック教会の宗教的儀式のために作曲されたものであり、伝統的に、Kyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)、Gloria(天のいと高きところに栄光あれ)、Credo(われ信ず)、Sanctus(聖なるかな)、Agnus Dei(神の子羊)という五部から成り立っている(Scholes,1967)。レクイエムとは「死者のためのミサ曲」(Missa pro defunctis)を意味する。本来的に内蔵するところ豊かなミサ曲、レクイエムが現代音楽の諸規定、諸要求をも満たすに十分適した音楽形式であることは明らかであろう。中世に起源をもつミサ曲とレクイエムの音楽的可能性は、現代において、近代の発明である交響曲(symphony)のそれに優るとも劣らない。
私にこんな経験がある。被爆50周年、戦後50年をめどに刊行を試みた拙著『長崎にあって哲学する』(高橋、1994)の執筆と校正をしながら、文字通り古今東西のさまざまな音楽を聞いた。そして、長崎・広島の被爆者の証言、核時代の人間的眞実がバッハの「マタイ受難曲」(Bach,1729)と共鳴、共振するのを心底からふるえるような思いで聴いたのであった。
ミサ曲、レクイエムについては、音楽史上、現存する最初のミサ曲といわれるギヨーム・ド・マショ(ca.1300-1377)の「ノートル・ダム・ミサ曲」(Machaut,1364)、デュファイ(1397-1474)の「パドヴァの聖アントニウスのためのミサ曲」から、ピエール・ド・ラ・リュー(1460-1518)の「レクイエムー死者のためのミサ曲」、パレストリーナ(Palestrina,1526-94)の「ミサ曲―キリストの永遠の贈物」を経て、現代のピエール・アンリ「現代のためのミサ」(Henry,1967)、ジャック・ルーシエ「 ―21世紀のバロック・ミサ」(Lousier,1986)、ロクサーヌ・パヌフニク「ウェストミンスター・ミサ」(Panufnik,1999)までを聞いて(10)、思うところがある。それは、この分野において、バロック音楽の傑作、バッハ「マタイ受難曲」(Bach,1729)と古典主義音楽の偉大な作品、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」(Beethoven,1827)を越えるものがない、ということである。マックス・ウェーバーの言うように、進歩する学問と違って、第一級の芸術は凌駕されず、古びない(Weber,1919:592;J:31)。だが、事柄はそれだけにとどまらない。私の見るところ、バッハの「マタイ受難曲」とベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」は、古今東西の死についての思索の試みの中でも特筆大書するに値する芸術的達成である。現代音楽の中にもこれを凌駕するものがない、と言って憚らない。しかし、それは芸術の特質に拠るとすれば、これらに比肩するものが現代音楽の中にあるであろうか。
それに対して、私はやや口ごもりながらではあるが、敢えて「ある」と言おう。1960年「広島の犠牲者に捧げる哀歌」を作曲したペンデレッキ(1933年生)は、さらに音楽芸術に精進して、ルトスワフスキー、グレツキーらとともに「ポーランド楽派」を形成し、「ルカ受難曲」(Penderecki,1966)、「ポーランド・レクイエム」(Penderecki,1980/84)を作曲した。ペンデレッキのこれら三作品を束ねてみれば(11)、それらがバッハ「マタイ受難曲」、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」に比肩する、と敢えて私は言ってみたいのである。1966年、ドイツのミュンスターで、「ルカ受難曲」の初演に先立って、ペンデレッキは次のように述べた。「受難曲はもちろん、キリストの受難と死を扱っていますが、20世紀半ばに生きる私たちにとって、それはまた人類の悲劇であるアウシュヴィッツでの受難と死の体験とも関わっています」と(Penderecki,1966)。すなわち、現代において、ミサ曲やレクイエムは「教会の中」で、人間の罪と神の救いとの間のみを往還するのでなく、「教会の外」の歴史と社会に広く深く関わる、ということである。宗教者、キリスト者の信仰、無宗教者、無神論者の良心は人権の抑圧、社会の不正義、歴史の逆行を手をこまねいて傍観できないのである。「ポーランド・レクイエム」は、グダニスクの「連帯」の労働者蜂起の犠牲者、祖国ポーランド出身の枢機卿ウィジンスキーの死、ここ長崎で「聖母の騎士社」を開いたマクシミリアン・コルベ神父の列聖(1982年)、そして、ワルシャワ・ゲットーの蜂起40周年記念(1944−1984年)、等々と深く関わって、その都度作曲されたものをさらに大きな全体に統合した力作である。ペンデレッキのこれら三つの作品を束ねて聴いてみると、この三部作を貫通する一つの言葉に逢着する。それは「神よ、私の神よ、なぜ私を見捨てられたのですか」(Deus, Deus meus, quare me dereliquisti ?)という言葉である。これは十字架上のイエスが神に向かって発した最後の言葉である(12)。それはまた、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキ、等々の現代史と現代社会における受難と死の犠牲者の言葉でもあった。こうして、われわれはミサ曲、レクイエムにおいて現代史のもっとも苛酷な出来事、ホロコーストの犠牲者の死と生存者の苦しみの中に入ることが可能になる。さきに私が、バッハ「マタイ受難曲」に導かれて、長崎・広島の「原爆地獄」(13)に降り立って行ったというのも理由のないことではない。いかなる時代にもせよ、芸術家が自己と同胞の死と受難を、イエス・キリストの受難と十字架の死において表現したものがミサ曲であり、レクイエムであった。ナチス・ドイツの爆撃によって破壊されたイングランド中部の町コヴェントリの大聖堂が再建されて、その献堂式のためにベンジャミン・ブリテンが作曲した「戦争レクイエム」(Britten,1962)の、破壊と死、再生と和解、そして苦悶と平安の、重層的な音の響きを胸に甦らせるとき、現代においてなおミサ曲、レクイエムのもつ意義は顕著かつ重大と言うべきであろう(14)。