山岡繁さん(81歳)の証言


 7月12日、18:00から教育文化会館にておこなわれた証言者集会のなかで、侵略戦争において、兵隊として実際に出兵した山岡繁さんの体験を聞くことができた。 山岡さんは、昭和15年に21歳で兵隊として招集された。それから数ヶ月間教育をうけ、情報部員として中国の第一戦へと出兵させられる。山東省で編成された59師団44大隊に所属し、中国の八路軍や農民と戦うことになる。普通、兵役は2年間なのだが、戦争が長引いたために満期が延び、戦後はソ連軍の捕虜となり、シベリアで5年間強制労働した後、中国で6年間戦犯として戦犯管理所へいれられた。後に無罪放免となり帰国された。日本を出てから、実に16年ぶりであった。

 山岡さんが情報部員として満州へ行ったのは、昭和15年、21歳の時である。日本はその当時、軍需品として役に立つ綿花を取るために満州へ軍隊を派遣していた。山岡さんは進んで兵隊に行きたいわけではなかったので、2年だけ行って満期を終了しようと考えていた。 昭和15年、山岡さんの所属する59師団44大隊は、山東省で編成され、そこの農民達に綿花を作るよう指導していた。昭和17〜18年までは、それも順調にいっていた。しかし、昭和18年くらいから、中国共産党の反日抗軍である八路軍が山東省に入ってきて、日本軍と衝突をし始めた。中国農民にとって、『コウリャン』という背の高い穀物は、当時何にでも使えたので、農民達は綿花を作るかたわら、コウリャンの育成に力を注いでいた。しかし、八路軍と日本軍の抗争が激しくなると、コウリャンは八路軍が隠れるのに絶好であったので、日本軍はこのコウリャンをかりとってしまった。必需品であるコウリャンをかりとられた中国農民もやはり、日本軍に対して反感を持つようになり、八路軍と協力して日本軍に綿花を売らないようにする経済封鎖を行うようになった。日本軍にとって綿花は爆弾などを作るために必需品であったので、更に強制的に綿花を取り上げようとした。反発する農民達は、地下を掘ってそこにかりいれた綿花を埋蔵することを思いついた。その作業は数万単位の労働を要する作業であったにもかかわらず、それをやっていたのは、それだけ日本軍への不信感が中国農民にあったのだと思われる。

 反発を受けた日本軍は強行手段に出ることになる。夜の間に村を包囲して、夜明けとともに大砲をうったり、手榴弾を投げたりして村を壊滅させてから、村の綿花を奪いに村へはいった。八路軍が村人の中に混じって反抗してきたけれども、日本兵は1人120発の弾を持っているのに対して、八路軍は1人8発しか持っていなかったので、相手にならなかった。逃げ惑う村人を見かけては八路軍だといって殺し、女性を見かけては強姦していた。大量に略奪し、虐殺したのである。日本軍はこの方法で次々に村を襲い、綿花を強奪していったのである。 しかし、昭和18年の夏以降から、村の中に入っても老人男子しかいなくなってしまった。夜の間に村を包囲しているのに、どこから逃げるのか日本軍にはわからなかった。 このわけは、村人達はあらかじめ物を貯蓄するための地下壕をつなげて、村の外へつながる地下道を作っていたのである。農民達は毛沢東の『抗日戦を論ず』(S,17)にしたがって、命を大事にしていたのだった。日本軍は「考える頭」という点でまず負けていた。

 昭和19年になると、八路軍だけでなく、農民も一緒になって反抗するようになっていった。いくら武器の量が違うと言っても、日本軍はたったの数百人、それに対して中国人は数万人で攻めてくるのである。山東省に数百あった日本軍の陣地が一日平均7つくらいずつ減っていったのである。日本軍兵士は勝ち戦のことは話しても負け戦のことは話す事はない。本当は中国にも日本軍は負けていたという。 山岡さんの部隊も農民達から逃げていたそうである。そうこうしているうちに終戦を迎え、ソ連軍につかまってシベリアに連行された。65万人がそこで強制労働をさせられた。5年間のうちで亡くなる人もいたという。

 それから千人が戦犯として中国の戦犯管理所に送られたが、その半分は、全く戦犯とは呼べない一兵卒であったという。中国に送られると、どんな仕返しをされるのだろうかと本当に恐ろしかったようである。つまり、自分達がそれだけひどいことをしてきたとわかっていたのである。しかし、中国側は千人の戦犯を丁寧に迎え入れてくれた。わざわざ設備を整えたり、暴力は一切なく、戦犯の要求は何でも聞き入れてくれたそうである。日本兵は至れり尽せりの扱いをうけて、米をたらふく食べ、肉や魚を毎日食べ、麻雀をしたりしていた。警備にあたっていた中国兵は貧しい食事をしていたようである。

 そうして2年もたつと、日本兵は頭を整理するようになって、自分達はいったい何をしたのか、どれほど残虐な行為を行ったのかということを被害者側の立場に立って、初めてわかるようになった。今まで戦犯ではないと主張していたのが嘘のように「死を覚悟する」ほどの反省をした。しかし裁判では、中国側の温かい心遣いで無罪、即日放免となり、日本へ帰るのである。

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